河合隼雄『ユング心理学入門』/自分という物語

 物凄く今更な話ですが、わたしがユングに出会ったのが河合隼雄『ユング心理学入門』だったのは良かったと思います。18才の頃だか、当時大阪はアメ村にあった天牛書店でカヴァも無く安かったから…というのはありますが、でもこの本が無ければものの見方が180度違っていたようにも。
 内容はユング心理学の諸概念をとても解り易く書いてある(そりゃ入門だし?)のは兎も角、そこでしかし河合氏が「西欧と東洋の心理的構造の違い」について記述されてて、それは左画像のような感じなのですが。
 わたしは宗教に興味があっていろいろ調べてはいたのですが矢張りピンと来るのは神道のアニミズムや仏教的悟りへの概念。
 キリスト教の「赦し」は全く受け入れ難かった‥わたしが何者かに赦されるなんてちゃんちゃらオカシイとキリスト教の傲慢さにムッと来た…って傲慢なのはわたしの方なのですが、でもそう思いました。この辺はE.フロムの影響が大きかったと思います(フロムについてはまた今度)。
 そこでこの河合氏による「あ、でも西欧と東洋は基本構造が違うからユングってもそうストレートにはいかんヨ」な分析に出会って恐ろしく納得しました。
 そもユングの分析心理学のダイナミズムは「深層無意識=それによって共有される自己」という所にあるのですが、この画像のよう「自己」がそのまま表出する東洋人、日本人に於いてはその共有がある意味簡単なのです。
 では「自我」は無いのかというと明治以降「大日本帝國(西欧合理主義化された日本)」になってからはそういう表層的な物語を持つようになった人々もいるかも知れない、でもであるとすれば先ずはその「大日本帝國」という物語を我がものとしていなければ、という。
 とはいえ大日本帝國は皇国で、しかしそれは他国の王族とは違い神道というアニミスティクな物語を背景に継続しているから結局は一般国民の感覚は変わってなどいない…というか変わらなくていいとも思う所ですが、戦後日本に於ける合理主義的構造の中ではそれが難しい。
 合理主義的社会構造であれそこでの精神構造は得てして「自我」の表層なくしての「自己」の物語の「共有」が求められる。簡単に言うと「仲間意識」や「仲良し主義」。
 それを河合氏は日本の抱える病いだと書かれておりましたが、まぁ病いは言い過ぎとしても問題ではあります。即ち物語を共有できない人間は、それをして病いだとされてしまう事があるからです。それを河合氏は書かれておったのですが、実際の所そういう事かと。

 なんでイキナリ今日こんな事を書いたかというと「自分の物語」をしっかりと持っておられる方と出会ったからです。人前で泣いたのなんて久し振りですが、わたしは泣くべきだったのでしょう、これまでも。