若し私が崇ならやはり自分が許せない、赦せない、耐えられない

 家族の死いうものを理不尽な暴力で齎された関係者はその犯人を赦せないしその存在を許せないだろう。
 この小説はネットで見ると「秋葉原大量殺人」に絡めて語られている様子だが、私としては寧ろ「光市母子殺害事件」を想起した。
 殺害者の意識のレベル、ひいては「無目的のようで悪意が存在する」からだ。詳しいことはネタバレ(別に推理小説ではないのだが!)に繋がるので書かないが、理不尽(或いは巧妙)な暴力で他人の命を奪うことはやはり「許せない・赦せない」。
 しかし、この小説の崇もだし私もだが、その殺戮者を赦す云々以前にまず「自分が赦せない」という感覚に囚われるのではないかと思う。
 それが解るのはこの一言、多分親身になってくれているのであろう室田への言葉だ。

 "オマエは幸福だな、こんなに愛されていて。それもオマエが手に入れたありとあらゆる愛の一つだ........
最もどんな人間相手の愛も、結局は、多様性の中で、オマエ自身とその相手とを中心化してゆく政治的なテクノロジーを磨かせたに過ぎなかったがね。それこそは、オマエの遺伝と環境の健康と幸福だ。喜びたまえ..... 悪魔が今、俺に向かって笑いながらそう言っている。誠実に語ってくれればくれるほど、ますます、目の前にいる室田の顔がはっきりと悪魔に見えてくるよ"

 このいっそモノローグめいた崇の物言いに室田は無言の怒りを表明するのだが、それも仕方ないだろう。
 彼は当事者じゃないのだから。

 そして私は走る車の音が聞えつつある朝、だけど蛍光スタンドが必要な暗い室内、ジョルジュに足を咬まれながら最後まで読んでちょっと泣いてしまった。
 私とて自分の家族が‥例え病のためであれ‥逝ってしまったとき、自分が赦せないだろうと思ったからだ。
赦せないのは自分だ、いつだって。
 一番いいのは自分が一番先に死ぬことだ。