田辺聖子/「ことづて」・孝之的なもの

 田辺聖子の短編集は読んでいて楽しいです。でも時々怖い話(怪談ではなく)もあったりしてそれがまた面白いのですが、まぁその登場人物の種々多彩である事…ってそんなのアタリマエなのかも知れませんが、作家によってはその作品に登場人物の類型というのが繰り返し別設定で出て来たりする、それがどうかは解りませんが田辺氏ではそういう事が滅多にないように思う。
 わたしは学生時代、瀬戸内晴美の短編集も結構読んだのですがこの人の場合、登場人物というか女主人公って「即ちハルミ」なわけでちょっと読むとウンザリする…好きな人には失礼…その上、どこか粘着質な?だから岡本かの子の伝記『かの子○乱』なんか瀬戸内ではなく田辺氏が書いて居たら‥と思わない事もない=思っている。
 かの子もまぁ独特ですがその着地点を「極度のナルシシズム」として書かれてはこれぞ失敬というべきもので。つか晴美のヤツは書かなくてもいいであろうわりと品下れる悪口になりかねないエピソードを書いている。これはかの女のレベルを露呈しているというか…仏門に入って悟った(ホントかよ)かもしれないけど行先はよくない所のような。知らないけど。
 かつてセリーヌがサルトルに「バーカ!デブのロンパリ野郎!」的な喧嘩を売った時にサルトルは「レベルを下げなくてはいけないような論争には巻き込まれたくない」と華麗にスルーした事が思い出されます。

 話が逸れましたが斯様、田辺氏の短編には類型的な登場人物が存在しないその中でもこの『ことづて』というのが実に面白い。
 ヒロインお春婆さんは未亡人なのですが、息子やその嫁からその嘗ての夫の供養をちゃんとしろ等々煩く言われると「死んだもんは死んだもんや」とケロッとしている。実は亡き夫は面白くもなんともなかったしその面白く無さを息子は引き継いでいると鬱陶しがってたりする。何歳位の設定かは解らないけどお春婆は近所のお手伝いに行ったりしてそれなりに稼いではいるし、地域の文化センターの催しには参加してみたり。ここを田辺氏は「かく少し文化的な事に顔を出すのが趣味」と記述。
 さてそんなある日、町でなんかやってる。見に行くと時代劇のロケなのだけど、ここに出ている主演若侍の美しさに驚きサインを貰う為に色紙とペンを速攻ゲット、戻って来ると丁度休憩時間で若侍はボンヤリとしてい、そこでサインを貰って感激のお春婆。その彼女に若侍は
 「あの山はなんていう山ですか?」
 と、尋ねガッチャ山であると畏れ多く感じつつ婆は答え、ではあっちの山は?と若侍に尋ねられたもののそれもガッチャ山であるとしか知らないお春婆はそう答えるも恐縮しかり。そこを田辺氏は「気の利いた答えが出来ない自分が辛く切ない」と記述。
 で、お春婆さんはすっかりその若い役者に夢中になり御針箱にブロマイドを忍ばせていたりする。TVもマメにチェックして友達婆と「ここが!よろし!」「よろしおまんな」「現代物も云々」「そうでんな」とか夢中なのだけどその友達婆は鸚鵡返しするだけの話にならんやっちゃと思っていたりもする。
 何せお春婆の感覚としてはこう。

 彼女にとってその若い役者の美しさというのは、遠い昔に読んだ少女小説のときめき、いつしか失くしてしまった母の形見の紫水晶の指輪の輝きを思い出させてくれるもので‥

 さて、お春婆のこの若い役者への傾倒は東京で開催される「××を励ます会」(ファンクラブの会合。ファンクラブにも入っている)に行こうと貴重なお小遣いを携え出掛けた所、近くでヒッタクリにあうというインシデントで頓挫。そこでイヨイヨカタブツの息子は怒るのだけど、「あんたに怒られる筋合いはない」と一蹴。
 で、このタイトル"ことづて"のシークエンスになるのですが、切ないような‥何ともいえないエンディング。

 ここで書かれているのは「女の少女趣味は枯れない」という事だと思う。
 でもわたしはお春婆程のアクティヴさがないから、若し近所に山田孝之がロケなりでやって来ても双眼鏡で眺めるレベル。リアル孝之の目をマッスグに見る勇気なんてほとほとない。