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 姉貴は凡そ朝の8:15分辺りに「行ってきます」と出かけて行く。すると父君と母君が「いってらっしゃい」と応える。我輩はただ玄関で見送るだけであるが、この姉貴という女人が纏ってゐる衣装というのが実に奇妙だ。
 父君が出掛ける時はスーツという常識的な出で立ちで、なかなか色遣いなど洒脱に見える、とはいえ我輩が見ている色というものが人間と同じかどうかは解らない。解らないながらも父君の衣装は均整がとれてをる。母君はというとあまり印象に残る類の衣装を纏っておられぬ。
 それに比べて姉貴の身に着けてゐる物はなんとも奇抜と申すかややこしい。それを本人は考えに考えて選んでをる様なのでそれが良いと思っての事であろう。偶にTVにも斯様、一種よく解らない衣装の者も出て来る事からして、そういう一派が人間の多い所には闊歩してゐるのかも知れないが、我輩の見る世間にはおらぬ。

 さてかの女が出掛けるや、我輩は父君の居られる居間へ行き陽当たりのよい所で寛ぐ。この陽当たりというのだけは姉貴の部屋では望めぬ代物であってやはり父君はTVを見てはやたらと話を変えるのであるが母君が出掛けると落ち着く様子で機嫌も宜しいのであろうか我輩をリュバンで揄ってみたりたまに話掛けてきたりする。
 ただこの人物の声があまり心地よくないので傍には余り寄らぬが、大抵が姉貴の自慢だ。そこで知ったのだがかの女は正しくは芙美という名で且つよく出来た娘であるという。その様な事を我輩に宣伝するよりは当の本人に伝えるが良かろうに、ただこの男性は実の所あまり喋らぬ。我輩には喋る。姉貴もかれとはあまり口をきかぬ。
 「それは里佳子さんと父上が愛し合っているからさ。これはアガペーと云って本物の愛だ。僕が里佳子さんを尊敬するのはエロティシズムではなくアガペーで他と接するからだ。」
 「君の話はむずかしいね。愛に本物や偽物があるのかい?」
 「偽物とは言わないけどエロティシズムで相手に執着するのは勘違いであって無駄遣いなんだよ。それは精神や肉体的の無駄遣い、それをして悦びとする事を蕩尽と云う。本物の愛はアガペ即ち神の愛。執着する事も損得もそこには存在しない無辜の愛さ。君の母上も君を愛していただろう?何の役にも立たぬとしても?」
 何の役にも立たぬとは不躾な事を云う奴だと思ったが、確かに我輩は公園でずっと母上と一緒に居たしお乳も飲んだ。よく我輩を舐めてもくれ人間には注意をしろと仰有り車の通る道に出ようとしたらこの首を咥えて元の草叢に戻りそれを揄う兄貴をポンと叩いて下さった。
 確かに我輩は母上に大切にされたが、この我輩が母上に何か出来たかというと何もない。これからも何か出来るか覚束ない。
 暖かいいい匂いの真っ黒な母上を思うとあまりの切なさに泪が出た。