結婚云々

 男女が番う事に問題はナイと思う、しかしその段階=例えば恋人同士の段階で「愛する」とか「愛される」という事を主体的に認識するのがメンドウなあまり「解り易い」図式に置き換える人々が多い事にこそ問題があると思う。それが例えば男の無責任な「甘エタ(関西弁で甘ッタレの事)な夢」という形で現われたり、それに連動する形で女のこれも地に足つかない「ハンパな母性」という形で現われる。しかし、ある意味、これは人類に於いては普遍的な事のようにも思える。家父長制度、あるいはラテン国家の「マチズモ」はそういう甘ったれた男の空威張りを女が受け止めてきた基盤の上に存在しているからだ。しかしそれを一言で「悪」とは言えない。だってそれで上手くいってる人達だって多いみたいだからだ。ただ私個人としてはそういうママゴトみたいな事に巻き込まれたくないと思う。いみじくもid:shibayohさんが書いているよう、やたら「結婚」したがる男は大抵「ママになってネ!」みたいなニュアンスが見えかくれする‥そうでなきゃ「家事出来るよな?」。どちらにせよ基本的にこちらの都合なんて考えていないし御母堂に会うとやはり「××ちゃんもそろそろ落ち着かないとダメだしクミさん、お願いしますね?」みたいな事言う。「お願いしますね」って何だよそれ。私の事たいして知らないでそういう事言うの信じられない。もちっと吟味しろよと思う。実際4回程こういう事=結婚話持ち上がってポシャるという事があった原因は私にもあるとは思うけど、カンチガイする方もどうか、と‥私は基本的にフェミニズムは日共と同じく「議論の為の議論」と思っているしジェンダーフリーなんて容認出来ない、まして性善説信奉だし悪意は絶対抱きたくない。しかしそれが無条件の容認に繋がるワケじゃない。私はちゃんと自分の言動に責任をとる覚悟はしているし、卑怯な事はしない、そしてそこで同じ事を相手に望んでいけないだろうか?私にとって本当のエロティシズムがディシプリンであるというのはそういう所からも来ている。他人と深部で接する事は自分の何処かを差し出す事だしそれが私にとっては苦痛を伴う究極の選択なのだ。だからこそバタイユの著作に魅かれる‥彼にとってエロティシズムは禁固の観念と分ち難いという考察は、しかし多分に倒錯しているがしかしそれが故に一種の真実だろう‥だから『眼球譚』のシモーヌの「普通!?」という糾弾がリアルに思われる人が多いんじゃないだろうか。スナワチ私が結婚や甘エタな感覚に反感を覚えるのはその安直さに加え、多くの可能性に目を閉ざそうという反動的姿勢だとも思えるからだ。あくまでもそういう姿勢で安穏な幸せが成立する事には肯定的ですが。