被差別の食卓

 ものすごく不謹慎な話題なんだけど、私はまず日本という国は=私レベルのミーハーでおちゃらけだと思っている。まぁ私程ではなくってもあんまりモノを考えない国民性を作り出す国土に生きている人々の集まりだと思っている。先ず小さい島がくっついた国土という条件から視野があまり広く無い。小さい共同体の価値観に囚われ易い。なおかつソトの情報が入り難いからコンプレックスな物の考え方をする。そして逆ギレっぽく「あーもう好きにして」って極めて簡単に投降する、或いはちょい気の効いた思想とか価値観に接するともう何千年前からそう思ってたかのような顔を平気でする。根拠の検証ナシに。だいたい中国をアカだのって言うけど、シナがアカになって中国になったのとヤマトがシロになって大日本帝國になったの、若干の差はあるにしても歴史的に考えたら極く最近の話だ。それなのにもうあまり物を考えたくない=自分のアイデンテティを大きい所に持っていきたいヒトに限って「大日本帝國万歳!日本万歳!」みたいな事を平気で言いがち*1。万歳は大陸のコトバだし私らのちょい前の祖先にしてみりゃ「?何ソレ?」だというのに。まぁそんな事はどうでもイイんだけど「差別」というものの根拠のなさも似たようなものであるという事である。ただ「差別」という物が人間のほぼ根底的な快感のひとつである選良意識をくすぐるという事、そしてそれを選択する事で向上心の放棄を容易にする=帝国主義的管理者側の植民地政策をもまた容易にするという理由から連綿と存続している悪習に過ぎない、という。そして昨今、日本に於ける被差別地域と行政の癒着を暴くような報道もあるし、それはそれで当然の事ではある。しかしその報道の裏で何らの改善なきまま地域への差別が「逆差別」的に温存している事も確かなのよね‥
 と、前フリが長くなったがこの『被差別の食卓<』は純粋に「へーっ、そういうの食べてみたいナ。」といったワールドワイドな情報満載です。ただ被差別存在へのPC(ポリティカル・コレクトネス)的表現が差別の実態を曖昧にし、また深化させているといった表現には考える所大。日本でもありがちな話ですよね。とりあえず第一章読んだ私は駅前のケンタッキーで何年か振り、多分今世紀入ってから初めてチキン買いましたが、一口噛むとじゅわわ〜と脂‥ああ‥チガウ‥

*1:その辺の歪んだ思考回路は大江健三郎の「セブンティーン」に詳しいです