聖なる神/G.バタイユ

 id:temjinusさんの所に不用意なコメントをしてしまった事‥っていうか「そういう意味ではナイよ」みたいな話。ついでにバタイユの事など。書けば書く程意味不明になってしまいそうではありますが、基本的に私が「食欲と違い性欲は充足が枯渇に結びつく」と書いたのは確かに説明不足だったと思えるのでちょっと。先ず『食欲』と『性欲』を並行して述べてしまった所に問題がありましたが、しかしやはり『性欲』は充足が枯渇というか渇望に結びつくものだという見解は決して間違っていないと思います(そういう経験は誰にもあると思いますし)。ソレに囚われてしまう状態というのはやはりまずその充足が人間にとって本当に何かを揺るがす物で、それを経験する事によって再度の充足を求めるようになるし、その状態をして枯渇感と表現したわけで。そういう行程を『恋』だと思い軽はずみな行動に走るのは年齢に関係なくありがちな事でもあります。例えば今『愛ルケ』で世の失笑を買いまくってる某エエ年した作家の書いてるものは殆どがそのクチ。ただそういう錯覚さえしなければ‥明確にこうした欲望が純然たる蕩尽であってこそのものだという冷たい覚醒さえあれば‥決して非難される質のものではないとも私は思っています。例えばこのバタイユの著書の表面的な自堕落の背後にある悟性に迄どれだけの人間が辿り着ける事か‥そして『死』を生の中で認識出来るならここに尽きるのです。そうした悟性に基づいたバタイユの著作に於けるエロティシズムがその表層にある現象に留まらず往々にしてディシプリンの苦味に満ちているのはその為だと思われます。そこで『死者』や『眼球譚』は読み物としての面白さがありますが、この『聖なる神』中でも『わが母』はかなり逃げ場のない、しかしその分酩酊度の高い名作です。でもバタイユって‥「この人がいなかったら世界は違ってた」と思える人って少ないですが確実にそのひとりでしょう。